慶誠寺の歴史
昭和/戦前
1935年(昭和9年)
10月庫裏540坪、総2階建の改築完成
1943年(昭和18年)
大東亜戦争勃発、梵鐘応召
(道内随一の大梵鐘450貫を供出)
昭和/戦後
1947年(昭和22年)
4月13日開基坊守石田みきゑ
郷里の富山県婦負郡呉羽村高木(現:富山市高木)
妙萬寺で往生。行年89歳
10月、本堂改築、本堂内部を椅子席に改修
◆改築工事資金180万円
1950年(昭和25年)
「きくし塾」開設
4月、北海道庁の認可を経て「きくし塾」開設
高等学校進学者の指導
1951年(昭和26年)
4月5日 慶誠寺境内にて、きくし幼稚園を附設
道内幼稚園で初めての「きくし幼稚園スクールバス」
1952年(昭和27年)
石田學而
第三世住職を継職
1月13日、第二世住職 石田慶封遷化、行年69歳
(恒信院釋慶封法師)10月石田學而第三世住職を継職
旭川ロータリークラブ所属
(旭川東ロータリークラブチャーターメンバー)
石田学而法師
旭川龍谷学園
菊枝学園を創立
旭川龍谷高校
建学の精神の源を探る
石田学而 理事長の想い
「多くの人たちが持っている普通の生き方は、どこまでも自分の力をあてにして、目標、欲望を追求しがちです。
そこへ全力をつぎ込んで生き抜こうとします。
しかし、この目標、欲望をどこまでも追及する生き方は、常に限界を招くのです。私たちは次代を担う子供たちへ、自分の人生をどのように生きるべきか、これをどのように伝えるべきか、真剣に考えなくてはなりません。
そこで、私たちは、仏教の教えに基づいた人間形成を図っていきたい自己の利益ばかり追求するより他者の利益を思い、配慮し重んずる人間の育成が私たち学園の願いです」
校訓
「み仏の み教え仰ぎ
清く正しく朗く美しく あれ」
1958年(昭和33年)
4月8日学校法人旭川竜谷学園旭川高等学校開校
1961年(昭和36年)
放火により龍谷学園全焼
住職の借金8,000万円
2月19日放火による火災、旭川竜谷学園校舎全焼
10月校名を旭川竜谷学園高等学校に改称
12月旭川竜谷学園校舎再建竣工
◆総工費1億6千万円(施工 東急建設株式会社)
住職8千万円の負債
現在の貨幣価値で約10億円の負債を背負う
全ての家財は
差し押さえられ
5条6丁目の土地を売却し豊岡へ寺基移転。
1962年(昭和37年)
7月 旭川龍谷学園校舎完成。
龍谷学園の再起をかけた
総事業費4億2千万円
校舎建設費1億6千万円
体育館建設費1億1千万円
本堂建設費1億5千万円
現在の価値で計算すると52億5千万円(12.5倍)
1963年(昭和38年)
旭川竜谷高校に校名変更。現校名:旭川龍谷高校。
1965年(昭和40年)
慶誠寺境内地を売却
旭川市豊岡5条4丁目に
寺基を移転
11月 旭川竜谷学園再建のため旭川市5条6丁目の
慶誠寺境内地を売却
旭川市豊岡5条4丁目に寺基を移転
本堂、庫裏を新築、鐘楼堂などを移築
本堂は印度様式、椅子席
360坪総2階鉄筋コンクリート造
境内地総面積は、3千坪
◆総費用約1億5千万円(施工 株式会社盛永組)
11月26日 西本願寺大谷光照御門主を迎えて
本堂新築落慶法要並びに御遷仏法要を
11月28日まで3日間修行
昭和/高度成長期
1966年(昭和41年)
12月3日、第二世坊守 石田阿屋往生、行年78歳。
1967年(昭和42年)
旭川竜谷高校体育館建設(1億1千万円)畠山建設
1974年(昭和49年)
石田慶嗣誕生
7月11日慶誠寺5代目住職 石田慶嗣誕生。
1975年(昭和50年)
慶誠寺納骨堂を増築、本堂階段手摺を改修
1980年(昭和55年)
慶誠寺別館ホール「芋畒居」落成。
鉄筋コンクリート総2階(施工 株式会社盛永組)
1981年(昭和56年)
6月23日、西本願寺大谷光真御門主を迎え
慶誠寺開基88年記念法要を24日まで修行
1986年(昭和60年)
妙萬寺(富山市)にて石田慶誠法師百回忌法要
夢を追い求め、諦めなければ失敗はない